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セルリアン☆ブルー

スキー&スノーボード2004-2005

<   2016年 08月 ( 14 )   > この月の画像一覧

時勢を読む

少々長文ですが興味深いコラムを発見!
FBから転載致します。


【今南シナ海で日中が衝突すれば、日本国内で多数の死傷者が出ます】


 日頃FBだけでなく出版されている日中の軍事力の対比を見る限り、それらが工作員によるプロパガンダにしか思えないのです。何故ならもし今南シナ海で日中が衝突すれば日本国内でテロによる多数の死者が出ることを一切想定されていないからです。それは私がネパールで真実を見てきたからこそ断言できる話です。

ちなみに添付した写真は中国共産党マオイストによる武力闘争によって政権を奪われたネパール・カトマンズでの乞食の姿です。また両腕を切断されていた少女も目にしましたが流石にシャッターを押す気にはなれませんでした。単刀直入に申しますが、じきに沖縄も北海道も同じ運命を辿ります。

 現実問題として戦争勃発後にいくら自衛隊が南シナ海でそれなりの成果を出してくれても、中国及び朝鮮は国家総動員法を発動して日本国各地にてテロを引き起こします。つまり軍隊経験あるそれらの工作員は徴兵制の経験のない日本人が対処できずにパニックになって疲弊するのを狙うわけです。それこそが「近代戦」なのです。

一方で日米も中国・朝鮮に負けまいとして同時に必ずや中国国内で派閥闘争や民族闘争を激化させる裏工作に打って出ます。されどそれで中国人民にいくら死傷者が出ようが、まずもってたとえ一億人が死のうが中国共産党は気にも留める由もありませんが。

何はともあれ最も重要な問題なのが、ネパール同様に工作員によって日本の各地での工場や発電所の爆破、家屋への放火・強盗、レイプが頻発することです。つまり日本人に多数の死傷者が出てパニックになるということです。さらに踏み込んで解説するならば、中国共産党や南北を含めた朝鮮はいくら南シナ海で人民解放軍が敗戦しても、疲弊した日本国を総選挙で保守派を落選させて過半数獲得して占領しようという算段なのです。それに関して結構自民党員の中にも多数中韓の回し者がいますから別段彼らには不可能なことではありません。

【政治団体からお金をもらって記事を書くアルバイト】

 最近FBで①国旗掲揚、君が代を斉唱しない国立大学名が掲載されていました。次に第二次世界大戦で②日本の国民の6割が餓死や病死で亡くなっている統計が掲載されていました。つまり戦死者より多いわけです。

 おそらく前者は右翼や保守によって、後者は左翼の政治団体が資金援助をしてアルバイトに投稿させて多くの人にシェアをさせているのでしょう。そんなことぐらい私は35年前の学生時代に既に研究済みです。けれども笑えることに投稿した本人たちはその意味を未だにまるっきり分かっていないようでしたが。

 近代戦になれば工作員はゲリラ戦で市街地やへき地で多数の民間人を殺し建造物を爆破してパニックに陥れます。ではその際に死傷者を減らす上で必要なのは一体何なのでしょうか?

 その詳細に関しては二・三年前に解説していますので昔私が書いた記事を参考にしてください。手短に言えば①医療物資と②食料の貯蔵と配給が必要なのです。
とは言ったもののいくら医療物資があっても病院が野戦病院になってもらわなくては意味がありません。では有事の際にどこがそうならなければいけないかご存知でしょうか?

 もしそれを即座に答えられたとしたら以前に軍事研究をされていた経験のある方のはずです。それは防衛医大を含む国立大学医学部の附属病院なのです。だからこそ国立大学での国歌斉唱、国旗掲揚が必要なわけです。

 余談ですが日本の超一流と言われている国立大学の中で医学部がないのはどこの大学かご存知でしょうか?
それは稀なケースですけれども一橋大学、東京外語大学、御茶ノ水大学、奈良女子大などがあります。言うまでもなくそれ以外の旧帝大や国立旧一期校にはあります。だからこそ総理大臣は全国立大学の学長へ医学部を野戦病院にすることを通達しなければいけないわけです。されど国旗掲揚も国歌斉唱もしない学長が多数いる現状では頭痛の種です。勿論言うことを聞かない学長がいたら有事の際市民に多くの犠牲者が出ることでしょう。いや間違いなく出ます。

【韓国とのスワップ】

 それでも現在安倍総理は未だ全国立大学の学長へ医学部及び附属病院の野戦病院としての通達を出していません。その一方で中国に住む邦人に対しては注意を呼びかけています。となれば戦術的にどういう方法を取るつもりなのでしょうか?

 昨日右手が痛いのにざっといろんな記事を流し読みしていたら、グラフを添付してまでも世界恐慌を回避するために韓国とスワップする必要があると投稿している奴がいました。きっと保守のふりをした中韓の工作員か、或いは正規で近代経済学を一度もかじったこともないアホな輩に違いありません。それを見て私は一時でも布団の上で痛みを忘れて笑い転げていました。

「知ったかぶりめが、ちょっとはIMFを勉強しろよ。」と言いたくなりましたが。

はっきり言って今すぐにでも朝鮮半島なんてデフォルトになってもらって、債務国になって貰ったほうが世界経済にはいいわけです。ところが日本にとって朝鮮半島を簡単にそうできないたった一つの存在理由があるわけです。それは中国との防波堤になって貰わなければいけないからです。

 まず韓国が中国の陣営につきたいというなら言うまでもなく一切スワップする必要はありませんし、それでももし韓国が完全に日米につきたいと改心したのならスワップしなければなりません。ここまで言えばわかると思いますが、そのようにはっきり陣営を決められない韓国を逆手にとって板挟みにする必要があるのです。ある意味未成年者のいじめに似た感覚です。

【アカンタビリティ】

 公認会計士を英語でどう発音するかご存知でしょうか?
 Certified Public Accountantsと言います。実はAccountantsには主に計算する人よりも、「説明責任(accountability)」がある人を意味します。

 屡々FBで「説明責任」という言葉が飛び交っていますが、多く人は理解されないで使用されているようです。例えば公認会計士は上場企業の決算が適切かそうでなかったかを公正に公表して判断を株主や国民に任せているだけで警察権まではありません。言うならば自浄作用を期待しているわけです。余談ですが東芝に関しては背任行為があったとしか言えませんが。

【アカンタビリティ(説明責任)が根付かなかった中国と韓国】

中国と韓国には公正なアカンタビリティが根付いていないので、アメリカの試算ではそれぞれ6,000兆円、500兆円の焦げ付きが指摘されています。となれば中国と韓国ともデフォルトなのでしょうか?

端的に言ってしまうと日本同様に地下資源のない韓国が完全にデフォルトであっても、一方で資源が豊富な中国はデフォルトではないのです。

となれば日本は一方的に韓国に対してスワップをちらつかせて中国との防波堤にできるわけです。現在会議でその攻防が続いています。

【天津爆発】

 驚いたことに当時私の天津爆発の記事が400件以上もシェアされて、日本中の方々に読んでいただいたようです。あの時、爆破されたのは極秘にシリアなどに輸出されていた中国の武器や兵器でした。それとあいまってドイツ車も大量に燃え尽きました。それでも未だにドイツがその保証を中国にしてもらったという噂を聞きません。そうなんです。それによってドイツの銀行は中国に多大な投資をしてきたのに回収できなくなってしまったのです。さあ困ったメルケル首相!

【イギリスによるEU離脱】

 苦しいドイツの銀行はイギリスがEUを離脱してさらに苦しくなり倒産の危機が叫ばれるようになりました。何故ならイギリスが離脱したことでイギリスの中国に対する投資が激減したからです。それについて言えば私は最初から中国潰しが目的でイギリスがEUから離脱することに気づいていましたから。

 また韓国はろくな製品を作らず投資だけで生きながらえてきた虚業の国家です。例えば利幅がよかったギリシャの国債がその国のデフォルトで紙くずになってしまい、しまいにはイギリスのEU離脱でイギリスに投資していたお金までも回収できなくなりました。

 さてそんな中でどこの国が最も被害を受けたでしょうか?
 実は「中国」なのです。中国は先進国の結託により経済戦争で負けてしまったのです。だから安倍総理は未だに日本の国立大学の医学部へ野戦病院になるように通達を出していないのです。
 
【持久戦】

 現在安倍総理と習主席は最後の持久戦に持ち込んでいます。既に経済戦争で敗れている習主席はもし今南シナ海で日中が激突すれば戦争の勝敗が決着する前に派閥争いで引きずり降ろされることを覚悟していて焦っています。もう一方で日本も同様に今衝突すれば国内でのテロを逃れられません。

 もし持久戦が続けば折れるのは習主席の方なのです。悲しいことに持久戦に持ち込めなかった場合私達大和民族がテロに巻き込まれる覚悟をしなければなりません。くどいようですが、人民解放軍と自衛隊の衝突なんてほんの小さな現象に過ぎないのです。



【念のため】
この記事は管理人が書いたわけではありません。
当ブログは外部ブログの為、何かあってはいかんと実際に投稿された方の氏名は載せておりません。

by tanaka369 | 2016-08-30 15:59 | ニュース色々

豚骨食堂

過日にタロさと豚骨ラーメンを食べに行きました。
山形市の「豚骨食堂」さんです。
なんか外装がかっこよかったです!
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7月だかにオープンしたとのこと。
タロさも管理人も初めてですよ。

豚骨ラーメンはただでさえも好きなのですが、さらに美味しかったです!
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ズッズと食べて終え替え玉もオーダーしました。
お腹いっぱい。
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げふー。また来ようっと!

by tanaka369 | 2016-08-29 23:45 | うまいもんセンサー

大東亜戦争、日本が侵略したと思っている方々へ

メッセージがございます。

中庸でいるには様々な側面を知ることも必要。
真実を知るには頭を柔らかくして臨む事が必要です。


歴史街道WEBより転載。
http://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2455

戦後70年、「日本軍が侵略した」と騙るすべての人へ

2015年08月04日 公開

井上和彦(ジャーナリスト)


神風特別攻撃隊の慰霊祭で日の丸の旗を持つフィリピン・バンバン村の子供たち(写真:井上和彦、以下同)

 2年前、10万部を突破した『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)で話題を集めたジャーナリストの井上和彦氏が、新著『ありがとう日本軍』を上梓した。

 「写真集を手にする感覚でご覧いただき、先の大戦を追体験していただきたい」「今こそ、日本人としての誇りを取り戻してほしい」。「そこまで言って委員会NP」をはじめ数多くのテレビ番組のコメンテーター、キャスターも務める井上氏が、戦後70年のタイミングで執筆した本書に込めた想いを伺った。

現地で一度も耳にしなかった、日本軍への非難

――『日本が戦ってくれて感謝しています』と比べると、カラーを含めた写真が非常に多く掲載されています。

井上 「百聞は一見にしかず」という言葉がありますが、かつての戦場に立てば、わずかでも日本軍将兵の苦労や想いを追体験することができ、そして封印された歴史の真実が見えてきます。私は、そんな大東亜戦争の真実を求めて、今も各地の戦跡を訪ね続けています。

 マレーシア、シンガポール、インド、タイ、インドネシア、フィリピン…。そうした東南アジア諸国の他にも、日本人がリゾート地としてよく訪れるグアムやサイパン、テニアン、ペリリュー、そして沖縄で、私がこの足で歩いて出会い、カメラにおさめた「事実」を、皆さんにご覧いただきたかった。そうすることで、大東亜戦争を追体験して欲しかった。特に写真には、時には文字以上に事実を雄弁に語る力があります。そこから、「あの戦争とはいったい何だったのだろう」と考えるきっかけにしていただきたいと思い、筆をとりました。

――実際に各国を歩いて回り、胸に残ったことは何でしたか?

井上 よく、日本では「日本軍はアジアで酷いことをしていた」と教えられます。しかし私は一度も、1人たりとも、日本軍を悪し様に語る方に出会いませんでした。これは事実です。むしろ、どうすれば「日本軍にこんな酷いことをされた」と語る方に現地で遭えるのか、大げさでなく、教えて欲しいくらいです。

 現地の人々にとって、日本軍は植民地支配を続ける欧米諸国からの「解放軍」として目に映ったといいます。第2次世界大戦前、世界の多くが欧米列強の植民地であり、被征服民は人間の尊厳も奪われまさしく奴隷として酷使されていました。それこそ、教育も施されずに、馬や牛のように働かされていたといいます。そんなところにやってきて、彼らを解放しようとしたのが、同じアジアの民族である日本軍だったのです。

「日本のおかげで、アジアの諸国は全て独立した」

――しかし、日本軍がアジアを「侵略」をしたと語られることもあります。

井上 日本が大東亜戦争を戦った理由、それは自存自衛とアジアの解放に他なりません。戦後、タイ王国のククリット・プラモード首相は、

 「日本のおかげで、アジアの諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか」

 と書き記しています。この言葉が、あの戦争が何であったか、そのすべてを表わしているでしょう。

           テニアン島の空港。各種砲が野外展示されている

 また、「日本軍=侵略者」と騙(かた)る際に、日本人が現地の人々にビンタなどの「暴力」をふるったと指摘されることもあります。しかし、私はテニアンで、日本軍が現地の人々に厳しく接したことへの感謝の言葉に出逢いました。そこで出会った日本人女性が、テニアンの年配者から聞いたというこんな話をしてくれたのです。この女性によれば、

 「この島のお年寄りたちは、『戦後やってきたアメリカは、たしかに援助はしてくれた。けれど、気づけばビザとハンバーガーとペプシコーラを与えられるだけで、島民はおかしくなってしまった。ところが比べて日本時代は、確かに日本人は厳しかったが、モノをただ与えられる今に比べてほんとうに幸せな時代だった』と言ってますよ。皆、日本時代を懐かしがっているんですよ…」

 というわけです。働くことや学ぶことに日本人は厳しかったが、そこには現地の人々の暮らしを向上させようとする“愛”があったのです。だからこそ日本時代を知る年配者は、日本時代への郷愁を感じているのです。

 まさかテニアンで、こんな話を聞けるとは思っていませんでした。世界中がこうした事実を知っているからこそ、私自身、各地で「日本軍を尊敬している」「日本軍に憧れている」、そして「ありがとう、日本軍」と声をかけられたのです。

――『ありがとう日本軍』に掲載している中で、印象に残っている写真はありますか?

井上 数多くありますが、昭和19年(1944)に撮影されたもので、ビルマ戦線でインド国境を突破し、ともに万歳をする日本軍将兵とインド国民軍の写真は何度見ても、胸を打たれます。

 当時、展開されたインパール作戦は戦後、日本陸軍の愚策の1つとされてきましたが、作戦の本質は日印連合軍による「対英インド独立戦争」でした。事実、インドはインパール作戦を「インパール戦争」と呼び、独立戦争として捉えています。「日本の侵略戦争」などとは誰も思っていませんし、作戦の『事実』を端的に表わす1枚でしょう。

 また、昨年訪れたインドネシアの「独立宣言起草博物館」に展示されていたスカルノ大統領手書きの独立宣言の起草案も掲載していますが、非常に印象的です。インドネシアは日本が敗戦した2日後の昭和20年(1945)8月17日、オランダからの独立を高らかに宣言しましたが、スカルノは日付を「17-8-′05」と記しています。

 この「05」とは、果たして、何を指すのか。実は、「皇紀2605年」なのです。彼らは独立しても、なお、日本の暦を用いたのです。もしも日本のことを恨んでいたのならば、独立にあたって誰が皇紀を用いるでしょうか。こうした写真を見るだけでも、「日本が侵略をした」という論がいかに事実無根であり、むしろ、アジア諸国の方々に、いかに感謝され、讃えられたかが分かると思います。さらにいえば、その後のインドネシア独立戦争の中心を担った『郷土防衛義勇軍(PETA)』を戦時中に作ったのも日本軍であり、現在、PETA博物館前に建つ兵士像は日本兵と見分けがつきません。
     インドネシアのPETA博物館前の兵士像


独立宣言起草博物館前でパレードを待つインドネシアの若者。独立の背景には、日本将兵の存在があった。手にはスカルノ大統領の写真

戦後70年、今こそ日本軍将兵の「事実」を

――折しも、「安倍談話」がまもなく発表される予定です。

井上 今、日本人がどうして卑屈になっているのか。それは、大東亜戦争で実際に日本と戦ったわけでもない中華人民共和国と韓国に難癖をつけられているからです。

 中華人民共和国が出来たのは1949年であり、韓国に至っては、共に戦った立場です。実は、中華人民共和国を創設した毛沢東ですら、昭和39年(1964)に訪中した日本社会党の佐々木更三委員長らに「日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、我々が権力を奪取することは不可能だったのです」(『毛沢東思想万歳』下)と語っているのです。

 そういうことを、残念ながら日本人はあまりにも知らなさすぎますね。だから、外から何か言われたら「我々の先人達が何か悪いことをしたんじゃないか」と思ってしまうのです。そして謝る必要がないことに謝ってしまい、より外交関係が歪(いびつ)になる…。世紀の大捏造事といえるいわゆる“従軍慰安婦”や、いわゆる“南京大虐殺”にしても、これがフィクションであるから、彼らは証拠を提示することができないし、また執拗に騒ぎ立てるわけです。

 安倍首相は今年4月、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議で、日本が国際社会に復帰する際にアジア・アフリカの国々が後押ししてくれたことに感謝すると語りました。

 これは非常に重要なことで、なぜアジア・アフリカの国々が日本を後押ししたかといえば、大東亜戦争で日本が米英に対して起ち上がったことが、それまでの欧米列強支配の世界に楔をうち、アジアやアフリカの国々が独立のきっかけとなったからです。安倍首相のスピーチは万雷の拍手を受けましたが、このスピーチこそがまさしく大東亜戦争の精神であり、我々はそろそろ、今まで囚われていた虚構、フィクションから脱出しなければならないでしょう。

――今年は、終戦70年を迎えた特別な年です。

井上 今、多くの戦争を体験した方々が亡くなっていっています。恐らくは、「戦後80年」の時には、戦争体験を証言してくださる方は、残念ながら、いらっしゃらなくなっている可能性が高いでしょう。

 その中で、従来のフィクションが生き続けるということは、将来の日本の子供たち、孫たちに負の遺産を遺すことになる。だからこそ、あの3年8カ月の戦いを、正しく、客観的に見直すことは、将来の日本人に対する最大の贈り物だと思います。そしてそれは、今を生きる我々の義務でもあるでしょう。そうでなければ、将来の日本人は中国と韓国にいわれなき理由で不当に批判され続けることになりますし、また日本のため、アジア解放のために雄々しく戦った日本軍将兵たちは、中国、韓国に永遠に冤罪を着せられたままになってしまいます。そんなことが許されていいはずがありません。

 謝るとするならば、あの戦争に負け、日本に期待をしていたアジアの人々をがっかりさせたことでしょう。日本が負けたことで、大東亜戦争中に独立を果たしたベトナムには、フランスやイギリスが戻り、インドシナ戦争が起きました。第1次、第2次インドシナ戦争でベトナム人は、あまりに大きな苦難に見舞われました。また、インドネシアにもオランダやイギリスが戻り、独立戦争が起きましたが、ここでも多くのインドネシアの人々が殺されています。もし、大東亜戦争で日本が負けていなければ、彼らはあの塗炭の苦しみを味あわずに済んだはずなのです。

 そして、もう1つ、忘れてはいけないことがあります。実は日本軍将兵の中には、戦後も現地に残って各地の独立軍戦争を戦った者も多かったのです。ベトナムでは800人、インドネシアでは2,000人にのぼりました。


インドネシアのカリバタ国立英雄基地に眠る元日本兵。インドネシア独立のために命を賭した

 彼らの中には終戦の詔勅に「朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず」とあることに胸打たれ、諸盟邦、つまりはアジアの国々に残って独立のために戦うことを決意した人もいたといいます。まさに彼らは、大東亜戦争の理念の総仕上げを成し遂げようと起ちあがったのです。もちろん、祖国には愛する家族がおり、会いたかったはずです。そんな思いを擲(なげう)って、アジア解放のために戦ったのです。

 このような日本軍将兵が行なったのは、「侵略戦争」だったのでしょうか。現地を歩けば、そんな論がいかに馬鹿げた話か分かりますし、今の日本のメディアや政治家は自分の足で情報を得ていないため、真実をまったく知らないと感じずにはいられません。だからこそ自分の手で大東亜戦争の「事実」を手に入れ、自分の頭で考えることが必要なのではないでしょうか。拙著がその手段のひとつとなれば、それ以上の喜びはありません。


著者紹介

井上和彦(いのうえ・かずひこ)

ジャーナリスト

昭和38年(1963)、滋賀県生まれ。法政大学社会学部卒業。専門は軍事・安全保障・外交問題・近現代史。テレビ番組のコメンテーターを務めるほか、書籍・雑誌への寄稿で活躍。著書に『こんなに強い自衛隊』(双葉社)、『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか』(PHP研究所)ほか多数。



管理人は大東亜戦争を戦った兵士の皆様、大日本帝国の臣民の皆様方の名誉回復が悲願であります。
私が生きている間に、日本国中そして世界で名誉が回復される事を切に願います。

by tanaka369 | 2016-08-24 22:55 | 日本の事・日本人の歴史

焼き肉とお酒の幸せな夜

先週末はタロさと過ごしましたよ。
生ビール呑み呑み焼き肉食べてきました。
一応管理人の誕生日会。

初めていく山形駅西口方面にある「てんま」はガス焼きですが、とても新鮮なホルモンを提供してくれて煮込みも凄く美味でした。
また行こうっと!
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その後は、タロさのお気に入りのバーへ行ってきました。
管理人はお腹いっぱいだしデキ上がってますし、帰宅してもいいのですが、タロさが大好きなお店なのでお付き合いです。

などと言っても、ついモヒートを頼んでしまいます。
好きなんだぁ、モヒート。
ミントの葉がいっぱい♪
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可愛い置物が。素敵!
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またタロさと呑みに行きたいなぁ。

by tanaka369 | 2016-08-23 14:46 | うまいもんセンサー

硫黄島秘話 

大東亜戦争の激戦地の一つ、硫黄島。
大日本帝国海軍とスプルーアンス海軍大将に纏わる実話をコピペ。

ついでに一言…。
末文あたりに「二度と戦争をおこさないように」とありますが、亡国の危機を回避する為の防衛戦争だったので「戦争をしかけられないように」が正しい。
日米開戦を心から願い誘導したのはコミンテルンであった事を認識して頂きたいものです。



思わず涙する言葉のチカラ

『アメリカの青年達よ。
 東洋には、すばらしい国がある』
  
「アメリカの青年達よ。
 東洋には、すばらしい国がある。
 
 それは日本だ。
 日本には君達が想像もつかない
 立派な青年がいる。
 ああいう青年がいたら
 やがて日本は世界の盟主になるに
 違いない。奮起しろ!」
  
硫黄島での戦いの時に
第五艦隊司令長官として
アメリカ海軍を指揮した
レイモンド・A・スプルーアンス海軍大将
の言葉です。
彼は戦後、この言葉を伝えるべく
全米各地を公演して回りました。
彼が、このように日本の事を
言うようになったのは
次のようなエピソードがあったからです。
  
1ヶ月近く激戦を繰り広げ
多大な犠牲者を出して
アメリカ軍が硫黄島を占領した
あくる日のことです。
岩山の穴の中から負傷した日本の陸軍少佐が
降伏のしるしのハンカチをもって出てきた。
  
彼は
「司令官はいないか。
 
 穴の中には
 有能な30名の青年達が残っている。
 彼らを日本のため世界のために
 生かしてやりたい。
 私を殺して彼らを助けてくれ。」
といいました。
 
少佐を引見したスプルーアンスが
「お前も部下達も助けてやろう」
というと、彼は
「サンキュー」
といって絶命しました。
  
その後、アメリカ軍は
青年達が残っている穴の中に
煙草や缶詰を投げ入れたりして
残された青年達に穴から
出てくるよう勧告をしますが
彼らはそれに応じず抵抗を続けました。
数ヶ月間の抵抗の末
やがて何名かが餓死し
最後に残された者たちは
手榴弾で自決して果てました。
その爆発がした時に
スプルーアンス司令官が
穴の所に飛んで行くと
穴の入り口に英語と日本語で書かれた
手紙がおかれていました。
  
「閣下の私達に対する御親切な御厚意
 誠に感謝感激に堪えません。
 閣下より戴きました煙草も肉の缶詰も
 皆で有り難く頂戴いたしました。
 お勧めによる降伏の儀は
 日本武士道の習いとして
 応ずることができません。
 最早(もはや)水もなく食もなければ
 十三日午前四時を期して
 全員自決して天国に参ります。
 終りに貴軍の武運長久を
 祈って筆を止めます。」
  
旧日本兵2万2000人が戦死。
  
今だに1万3000人あまりの遺骨が
みつかっていない。
  
昭和二十年五月十三日
日本陸軍中尉 浅田真二
米軍司令官スプルーアンス大将殿
  
ー 祖国と青年 平成7年6月号 ー
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・
  
かつての戦時教育や行動規範の基では
自決は仕方なかったこととはいえ
将来のある若者達が命を断ったことは
非常に残念なことです。

アメリカ軍に対する厚意に
お礼の手紙を残しておくことに
崇高な気高さを感じました。

このような戦争を
二度と起こさないことを
改めて心に誓うばかりです。

二度と戦争を起こさないように
このお話を一人でも多くの方にシェアして頂けたら嬉しいです。

宜しくお願い致します・・。



by tanaka369 | 2016-08-20 13:48 | 日本の事・日本人の歴史

大東亜会議を原点としたASEAN会議

この日本では殆ど知られていない日本の史実。
ぜひ皆さんとも共有したくコピペ致します。


昭和18年11月5日 東京 「大東亜会議」



ASEANの会議に、韓国がオブザーバーで出席していたとき突然韓国代表が立ち上がって、 議題とは何の関係もない日本批判を始めた。
ASEAN各国の代表はまたかと思い渋い顔をして聞いていたが
いつまで立っても、終わる気配がなかった為ついにインドネシア代表が、韓国代表の話を遮りこう言った。
「韓国人はどうやらASEAN諸国を見下しているようだ。
我々は確かになかなか発展できないでいる。しかしもし、日本がそばにあったら、現在のようなASEANではなかったはずだ
日本が隣にあれば、どんな国家でも韓国程度の発展はできる。韓国の成功は、100%日本のおかげであって、別に韓国が誇れるようなものではない。 韓国人が、恩を受けた日本人に感謝ひとつできない人達であることが我々には全く理解できない
我々は戦前に日本から受けた恩に今でも感謝している。 永遠に忘れることができないものだ。
その結果できたのが、今ここで開催しているASEAN首脳会議である」

このエピソードは話半分としてもASEAN(+3)の原点となったのは昭和18年11月5日に東條内閣の元、東京で開かれた「大東亜会議」であることはまぎれもない事実だ。中華民国(南京政府)、タイ、フィリピン、ビルマそれに日本、自由インド仮政府が参加し、その翌日6日には大東亜共同宣言が採択された。
この会議は、アジアという漠然とした概念に初めて実体的輪郭を与え、そこに一つの地域的共同体的連帯感を与えた点においてまさに画期的な出来事であった。そして同宣言がアジア諸国家に戦後国際社会での正当な地位を約束した。この宣言が既に日本から発出された以上、連合国側は勝者として敗戦国日本への対抗上からも、新たに独立したアジア諸国家に欧米諸国と対等の地位を与えざるをえなかったのである。
この会議に出席したフィリピンのラウレルは「大日本帝国の絶大な努力によって、有史以来はじめて我々が一堂に会合したこの事実には、心から感謝せざるを得ないのである。……十億のアジア民衆は少数の西欧強国の支配及び搾取の犠牲に再びならないことを世界に向って宣言しうるのである」とのべた。
インドのC.ボースはそれまでの数々の国際会議と比較しながら、大東亜会議が「弱小国家を犠牲に供せんとする陰謀、謀略の会議でもなく、また弱小な隣国を瞞着せんとする会議でもなく、実に解放せられた諸国民の会議である。すなわち正義、自主、国際関係における互恵主義及び相互援助等の尊厳な原則に基づいて東亜の地域に新秩序を創建せんとする会議である」とのべた。
この大東亜会議を帝国のアジア支配の欺瞞であるという自虐史観は捨てるべきだ。これらの出席者の証言も、その後のアジア各国の独立を見ても明らかでしょう。
大東亜宣言が採択された11月6日は「大東亜の日」 大東亜と言う言葉に抵抗があるなら「アジアの日」として国民の祝日にすべきだと思う。そしてアジアを白人の支配から解放した日本の功績を後世に伝えるべし!












by tanaka369 | 2016-08-18 13:02 | 日本の事・日本人の歴史

通州事件(5)

続きです。
今回で最終回です。

文字数制限があり分けての投稿となりました。
凄惨な虐殺事件のため読み進められないシーンもあったかもしれませんが、我々日本人は知っておくべき事件として投下させて頂きました。

コピペ先である「ねず」さんこと、小名木善行(おなぎぜんこう)さんのコラムも合わせてコピペしております。

【4】

昼過ぎでした。

日本の飛行機が一機飛んで来ました。
日本軍が来たと誰かが叫びました。

ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。
その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍が来たのは翌日でした。
でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。

とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。
このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。

私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。
私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。

こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。
今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。

そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~

以上です。

通州で被害に遭われた方々のご冥福をお祈りしたいと思います。

このお話は、教育社発行しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」という本からの引用です。
デジタル化にあたっては、「blog:徳島の保守」のみなさんが、財団法人慧燈財団、前理事長であられた、調寛雅(しらべかんが)さんのご子息様のご許可を頂き、引用掲載され、当ブログで再掲させていただきました。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1

ちなみに文中に出て来るSさんの夫、支那人のTさんは、支那共産党のスパイだったと言われています。
また、被害に遭遇されたSさんは、事件後、日本陸軍によって事情聴取を受けるのですが、そのあまりの可哀想さに、取り調べにあたった軍人さんが、彼女のお婆さんの体験をもとに、佐賀の因通寺にお連れしたのです。

因通寺は、たいへんに歴史のあるお寺で、しかも陛下にも奏上されたことのある由緒正しい立派なお寺です。
昭和天皇が戦後佐賀に行幸されたときは、このお寺を尋ねられてもいます。

日本陸軍の担当官は、上層部とも連絡をとりあい、このSさんの心が少しでも救われるようにと、因通寺に、彼女をお連れしているのです。
そして彼女は傷心の日々を、このお寺で過ごされています。

そして問わず語りに語った彼女の体験記を、ご住職がまとめられたのが、この体験記なのです。

たいせつなことがあります。
それは、この事件は、単に73年前のひとつの特異な事例ではない、ということです。
支那では、いまでも法輪功やウイグル、チベットで、同じことが繰り返されています。

そしていま、民主党政権のもとで、多数の支那人学生が日本に居留し、また今年7月1日のVASA要件緩和によって、多数の人民解放軍が日本にやってきている、ということです。

在日朝鮮人が走狗となって使われ、日本人は残虐だ、日本は悪い国だ、日本人は皆殺しにしなくてはならないなどとマッチポンプの役割を果たします。

そして支那人たちが大挙して日本にやってくる。
子供の頃から徹底した反日教育を受けて育った支那人たちが暴発したとき、そこで何が起こるのか。

沖縄は、いま、中共の工作によって日本人に貶められた自分たちは被害者だ、という妄想に取りつかれようとしています。
それが暴発したとき、沖縄で何が起こるのか。

歴史は繰り返すといいます。
しかし、73年前に日本人が受けたその酷い仕打ちを、絶対に繰り返してはなりません。

ここは日本です。
日本の地は、日本人が守らなくていったい誰が守るのか。

通州事件は、私たちに大切な何かを教えてくれているのだと思います。

最後にひとつ。

「なぜ通州に、日本軍が駐屯していたか」です。

日本軍は、この地を占領していたのではありません。

この前に、世界を震撼させた恐怖の義和団事件が起こっています。

この事件で清朝政府に治安維持能力がない事が分かったため、明治34(1901)年の義和団議定書で、居留民保護のために国際平和維持軍が設立されたのです。

その議定書に基づき、米英仏伊日5カ国が、36年間もの間北京周辺に大部隊を駐屯させ、居留民の保護を行ったのです。

各国駐屯軍は大砲や戦車まで持っていました。
そして各国の駐屯軍は、支那人が自国の居留民に対して、たった一度でも暴行を働くと、これに対して徹底的な軍事的制圧を行っています。
たとえば、自国の居留民ひとりが支那人によって乱暴されるようなことがあると、暴徒たち全員に、大打撃を加えています。
欧米人たちにとって、支那人は、支那人に限らず有色人種は、人間ではないと看做されたからです。

ところが日本は、同じ東洋民族として、支那人たちに仁政を行いました。
支那人に対し、人としてやさしく接しました。

普通なら、これに感謝の心が芽生えます。
けれど支那人たちは、まったく逆に「日本人は何をしても反撃してこない」と考えたのです。
そして、通州において、それが具体的な形となって顕われました。

南京大虐殺などというホラ話と異なり、通州事件は実際にあった事件です。
当時の模様は、世界中の新聞で報道されています。

日本人は、この事件を絶対に忘れてはならない。
絶対にです。



知る事ができて本当に良かったと思っています。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
本文にもありましたように、蓮の花が咲く御仏の世界にて幸せにお暮らしになっておりますように。

by tanaka369 | 2016-08-17 23:32 | 日本の事・日本人の歴史

通州事件(4)

続きです。
(次回で最終回ですよ)
【4】

そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。
そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。

ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。
保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。

集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。
恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。

何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。
そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。

すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。
するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。

私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。
五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。

みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。
そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。

引き金に手をかけたらそれが最期です。
何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。
日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。

するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。
その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。

バタバタと日本の人が倒れて行きます。
機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。

そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。
このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。

しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。
そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。

兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。
只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。

五十数名の日本人は皆倒れているのです。
その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。

ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。
何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。

保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。

こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。
全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。

見物しておった支那人達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。
何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。

これは一体どういうことでしょう。
私には全然わかりません。

只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。

もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。
私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。

私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽の近くまで来たときです。

その近水槽の近くに池がありました。
その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。

あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人もの支那人がいるのでそれは出来ません。
若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外の支那人達はおかしく思うに違いありません。

国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どの支那人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。

そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいる支那人達からあの人はおかしいではないかと思われる。
Tさんまでが変な目で見られるようになると困るのです。

それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。

そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。
殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。

そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。
国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。
ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。

そして首を前の方に突き出させたのです。
そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。

この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。
これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。
この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。

するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄が飛び散りました。
二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。

合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。
四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。

そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。

池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

私はもうたまりません。
Tさんの手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。

そして見たくはなかったけど池を見ました。
真っ赤な池です。
その池に蓮の花が一輪咲いていました。

その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。

Tさんと一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。
Tさんは一生懸命私を慰めてくれました。

しかしTさんが私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。


by tanaka369 | 2016-08-16 22:19 | 日本の事・日本人の歴史

通州事件(3)

続きです。
【3】

道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。
Tさんが私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。

でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさんが「帰ろうか」と言うのです。

私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。
怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。

私が首を横に振るのでTさんは仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。

私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。

私はTさんに抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。

若し私がTさんという人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。

しかし支那人のTさんに抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。
だから黙って通してくれたと思います。

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。
殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。

私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。

そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。
十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。

痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。
とても人間のすることではありません。

悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。
いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。

日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。

集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。

支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。

この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。

十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。

こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。

そしてそれだけではなかったのです。

学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。
そして勿論裸足にしております。

その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。

そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。
この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。

でも倒れることは出来ません。

外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。
学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。

私は思わずTさんにしがみつきました。
Tさんも何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。

そして私の耳元でそっと囁くのです。
「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。

勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。

そして私とTさんの周囲には何人もの支那人達がいました。
そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。
氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。

兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般の支那人は全く無表情で只黙って見ているだけなのです。

しかしようもまあこんなに沢山支那人が集まったものだなあと思いました。
そして沢山集まった支那人達は学生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。

勿論これはいろんなことを言えば同じ支那人ではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。

これも又異様のこととしか言いようがありません。

こんな沢山集まっている支那人達が少しづつ移動しているのです。
この沢山の人の中には男もいます。
女もいます。
私もその支那人達の女の一人としてTさんと一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。

旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

二人とも真っ青な顔色でした。
一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。

しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。
どうしてやることも出来ないのです。
言葉すらかけてやることが出来ないのです。

二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。
いやその一部からは出血さえしております。
髪はバラバラに乱れているのです。
とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。
左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。

しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。
只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

そしてそこにバッタリ倒れたのです。

すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。
そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。

この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。
すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。

私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。

そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。

そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。

そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。

それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。

そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。
何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。

それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。

何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。
この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。

そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。
恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。

しかしこれを見ていた支那人達はどうすることも出来ないのです。
私もTさんもどうすることも出来ないのです。

もうこんなところにはいたくない。
家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。
沢山の日本人が殺されています。

いやまだ殺され続けているのです。
あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。

そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。
私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。
耳を覆ってみても聞こえるのです。

又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。

旭軒と近水槽の間にある松山槽の近くまで来たときです。
一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。

するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。

お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。

お婆さんは仰向けに倒れました。
学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。

誰も見ていません。
私とTさんとこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。

そして、「くやしい」と申すのです。
「かたきをとって」とも言うのです。

私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。
「いちぞう、いちぞう」
と人の名を呼びます。

きっと息子さんかお孫さんに違いありません。
私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。

するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。
そして息が止まったのです。

私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。

Tさんが私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。

すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。

そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。
それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。

何とその女の人はお腹が大きいのです。
七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。

この女の人は何もしゃべれないのです。
恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。

ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。
歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。

学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。
そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。

兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。
妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっている支那人達の間にも拡がっておりました。

とそのときです。
一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。

そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

これで事態が一変しました。
若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。

学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。

するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。
そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。

学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。
すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。

私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。

七名も八名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。

ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。
私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。

ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。

するとどうでしょう。
この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。
この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でもこの日本の男の人の働きもここまででした。
この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。

日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。
日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。

これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。
日本の男の人はぐったりなって横たわりました。

それでも支那の兵隊や学生達は乱暴を続けております。
そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。

それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。
私はあんな残酷な光景は見たことはありません。
これはもう人間の行為ではありません。
悪魔の行為です。
悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。

頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。
このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。
そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。
十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。

私はTさんにすがりついたままです。
何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。

地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。

そしてそれだけではありません。
別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。

一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。
このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。
そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

しかし見ていた支那人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。

この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。
野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。

そんな人間でない連中のやることに、流石に支那人達は同調することは出来ませんでした。
まだ見物している支那人達は人間を忘れてはいなかったのです。

そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。

この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。
出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。

そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。
学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。

とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。
フラフラと立ち上がりました。

そして一生懸命逃げようとしたのです。
見ていた支那人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。
妊婦はバッタリ倒れたのです。

すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。
するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。

しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。
国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。

私は何をするのだろうかと思いました。
そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。

だが支那人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。
剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

赤い血がパーッと飛び散りました。
私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。

実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。

妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。

そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。
片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

あまりの無惨さに集まっていた支那人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人の支那人が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。

「日本人が処刑されるぞー」

と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。
しかしそれは支那の学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。

私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさんが行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。

このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさんが支那人であったということです。
そして私は結婚式までしてTさんのお嫁さんになったのだから、そののちは支那人の嫁さんだから私も支那人だと思い込んでいたのです。

そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私も支那人だと思うようになっていました。
そして早く本当の支那人になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。

そしてこの一、二年の間は支那語も充分話せるようになって、誰が見ても私は支那人だったのです。実際Tさんの新しい友人はみんな私を支那人としか見ていないのです。
それで支那のいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方を支那人によって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。
それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。

それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさんはやはり支那人です。
私の心は通じておりません。

そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさんに言いたかったのですが、Tさんはやはり支那人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。

家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。
それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。


by tanaka369 | 2016-08-15 22:07 | 日本の事・日本人の歴史

通州事件(2)

続きです。

【2】

しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。
沢山の支那人が道路の傍らに立っております。
そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。
いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。

その娘さんを引き出して来たのは学生でした。
そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。

その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。
体はぶるぶると震えておりました。

その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。
そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。

保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。

そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

支那でも七月と言えば夏です。暑いです。
薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。

しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。

そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
そして下着を取ってしまいました。

娘さんは「助けてー」と叫びました。

と、そのときです。

一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。

恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。

すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
頭が割られたのです。

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。

娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。
この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。

そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
服が破けます。
肌が出ます。
血が流れます。
そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
血がパーッと飛び散ります。

その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。
それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。
又腹を突きます。
胸を突きます。
何回も何回も突き刺すのです。

沢山の支那人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。
この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。

その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。
暴虐無惨と申しましょうか。
あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

この娘さんは既に全裸になされております。
そして恐怖のために動くことが出来ないのです。

その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
そして陵辱をはじめようとするのです。

支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。

ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
どうしても陵辱がうまく行かないのです。

すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。

そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。

こんな姿を見ながらその近くに何名もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。

ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。
私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。
目をしっかりつぶっておりました。

するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
私は思わずびっくりして目を開きました。

するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。
何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。
その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。
見てはいけない。
見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。

ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。
それから剣で首を切り落としたのです。

その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。
投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。
若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。

そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。
しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。

そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。

私は立っていることが出来ない程疲れていました。
そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。

この残虐行為をじっと見つめていたのです。
腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。
そしてその首はないのです。

何とも異様な光景です。
想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。

ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。
そうしたときTさんが「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。

私はハッと自分にかえりました。
すると何か私の胃が急に痛み出しました。
吐き気を催したのです。


by tanaka369 | 2016-08-14 00:53 | 日本の事・日本人の歴史



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